「わかる」という誤解

「わかりやすい」というのは、一般的に良いことのように思われている。

例えばなにかを解説してもらうとき、「わかりやすい」本というのは受け入れられやすい。読む側は得てしてそれを理解するのに労しない。「本当に」わかったかどうかはどうでもよく、読んだ側がすぐに「わかったと感じられ」れば(思い込めれば)それでよいのだから。

酒をあまり飲まない人、ほとんど飲んだことがない人は、仮になにか酒を飲む場合、「わかりやすい」酒を好む傾向がある。

たとえばそれは、ジュースのように甘くて、舌が抵抗することなく飲めるような酒だ。ジュースのようで「わかりやすい」から、それをおいしいと感じるのだろう。

逆に、「苦味」に真価がある酒は好まない。それはジュースのようではなく、味が「わかりづらい」からおいしくないと感じるのだろう。

音楽についても同じようなことが言えるのではないか。

キャッチーなメロディーばかりで構成された音楽は、魅力的だから「わかりやすい」し、電車の中でイヤホンをしながらでも、家で何かをしながらでも、耳にスッと入ってくる。聞く側に「わかるための労力」を強いない。そういった音楽は、だから、多くの人に支持されやすい。

一方で、何回も何回も「聴」かないと(「聞」かないと、ではない)、良さが「わからない」曲もある。場合によっては、5年、10年、20年と自分が年を取っていって、ようやく「ああ、いい曲だな」と感じられることだってある(私の場合、あるジャズの曲がそうだった)。

昔、サッポロビールの「大人エレベーター」というシリーズ物のCMで、坂本龍一が「わかるっていうことはね、誤解だと思うんですよ。(でも)誤解でいいと思うんですよ」と語っていたのが、今でも印象に残っている。

見た当初は、いまひとつその意味がよくわからなかったが、最近になって少しずつ「わかるっていうのは誤解」ではあっても、「誤解でいい」の意味が「わかる」ようになってきた気がする。

すぐに「わかる」というのは、おそらく多くの場合、「誤解」なのではないか。実は「わかった」のではなく、「わかった気がした」が本当のところではないか。そう、わかった「気がした」のだ。なんだかよく「わからない」けれど、わかった「気がした」のである。

それに気づけない限り、それは「誤解」である。「わか」っていないのだから。

だが、「いまは」それでいいと思う。本当にそれを「わかる」ためには、実のところ、「時間」と「労」が必要なのではないか。自分がわかりたいと思う「それ」に対しては、「時間」をかけて「わかる」ための「労」をとっていかなければ、本当に「わかる」ようにはならないのではないか。

本当にいけないのは、わかったと「誤解」し続けることである。「本当に、自分はそれを“わかった”のだろうか?」と自問しないことである。自身の、「それ」への理解が、本当に「理解」として成立しているのかどうか、反省しないことである。

「わかる」ために、必ずしも時間と労力をかけることが良い、とは思わない。

だが、ありとあらゆるジャンルにおいて、あまりにも「わかりやすい」コンテンツが増えた現代において、たまにでも「本当に、自分はそれを“わかっている”のだろうか?」と振り返ってみることは、「わかっている」と思っていたことが実は「誤解」だったと「わかる」ことができる良い(?)きっかけとなるかもしれない。

「話に説得力のある人」とはどういう人か

いまのYouTubeでは、そこそこ有名で、社会のありとあらゆる問題や課題について意見を述べている「社会派」な方々、あるいは特定の分野についてのみ話をする方々の様子を簡単に視聴できるようになった。一昔前のテレビ番組には出られないであろう方々が、そこでは活躍しているように見受けられる。

具体的に誰かということは明言しないが、私が見ていて興味深いな、引き込まれるなと感じる人にはおしなべて共通することがある。それは、

①「話すスピードが速い」
②「話す一文が短い」
③「接続詞をよく使うので、論理的に話している(ように感じやすい)」


である。
無論、程度に差はあるものの、ほぼ共通しているのは上の3つである。

①「話すスピードが速い」
これは見ていて感じやすい特徴である。とにかく皆、話すスピードが速いのだ。タラタラ喋らない。パッパッパとテンポよく喋る。だから見ていて眠くならないし、刺激的である。

②「話す一文が短い」
話すときに一文一文を長くしていない。とにかく短くし、さっさと「です」「ます」などで切り上げてしまっている。だから、「流暢に喋っている」感じを演出しやすいので、見ていて引き込まれる。

③「接続詞をよく使うので、論理的に話している(ように感じやすい)」
「なので」「だから」とか「でも」「だけど」とか、そういった口語上での接続詞をよく使う(織り交ぜる)ので、論理的に話しているように感じやすい(実際に論理的かどうか、すぐその場でわからなくても論理的であるように見せやすい)。そのため、聞いていてスッと頭の中に話が溶け込みやすい。

では、この3つを駆使できるようにするにはどうすれば良いか。

それを考える時、上記の方々を観察していると感じるのは「自分に自信があるかどうか」に尽きる。結局、彼らは自分に自信があるのだ。自信があり、自分の考えや意見が明確だから、先の3つを上手に扱えるのだ。

自信を持って発言できるようにするにはどうすれば良いか。それは思考の訓練、ただそれだけである。なにか問題や課題を見つけた時、自分ならそれについてどう考えるか、そしてなぜそう考えるのかをうんと突き詰めていく訓練をしていく。問題や課題は社会的なことでも自分の身近なことでも何でもいい。

とにかく、考える。自分なりの結論を出す。そしてなぜそう考えるのかの根拠も言えるようにしておく。これらを日々実践していくだけでいい。これらの積み重ねが「話に説得力のある人」を作るのだと思う。

男の服装に「おしゃれ」はあるのか?

私が「おしゃれ」を意識するようになったのは、大学生になってからだ。「おしゃれ」をすることが好きで、社会人になってからも本や雑誌、ネットから色々な「おしゃれになるための知識」を仕入れ、試行錯誤を自分なりに繰り返してきた。

だが最近になって、「そもそも男の服装に“おしゃれ”はあるのだろうか?」と感じるようになった。

ファッションに関する本やネットの情報などを見ると、ドレスライクなアイテムとカジュアルなアイテムをバランス良く自身の服装に取り入れることで、「おしゃれ」が成り立つなどと説明しているのをよく見かける。

こうした考え方をベースに、やれシルエットがどうだとか、やれトップスとボトムスの配色はなんだとか、まるで数学における「公式」のようなものを築こうとしているように見える。

私も昔はそういった考え方を強く信じて、自分の服装を「おしゃれ」に見せようと頑張ってきた。そうしたファッションの解説には、確かに納得できるものもあった。

だが年を取っていくうちに、「本当にこうした服装は“おしゃれ”なのだろうか?」と感じるようになっていった。色々なアイテムを買って身につけてはみるものの、結局のところ、「自分の中での好きな服装」というのが固まりだし、それ以外の服装をしてみようとも思わなくなり、気づけば色柄は違えどほぼいつも通り、という格好をするようになっていた。

こうした現象は、別に私だけに起きているわけではないと思う。

例えばインスタなどで「おしゃれな人」として有名なファッション関係者の服装を見ていても同じような「現象」が見られる。

仕事柄のせいか、ドレスライクなファッションをすることが多い人は、個々のアイテムの色柄やシルエット、素材は違っていても、ほぼ毎回テーラードジャケット、シャツ、ネクタイ、ウールのパンツ(スラックス)、革靴といった出で立ちでインスタに登場する。そういう人たちが、アメカジ全開な格好で出てくることはまずない。

仮にそれまでと違ったテイストの服装をしてくるにしても、例えばネクタイはしないとか、革靴は黒の表革ではなく茶のスエード素材のものを履くとか、その人のインスタを見ていると何度もよく目にする格好をしてくるだけである。

こういう人たちは、街中にいる「“おしゃれ”に無頓着なおじさん」と比べれば、確かに「おしゃれ」ではあろう。しかし、自身が過去にしてきた服装とほぼ同じであれば、その人のことをよく知っている人からすれば、いまさら彼のことを「おしゃれ」だとは思わないだろう。「まあ、ほぼほぼ“いつも通り”な格好だよね」といった感想しか抱けない。

もちろん、「おしゃれ」に無頓着であるより、興味関心があることに越したことはないだろう。

だが、「だいたいの日本の成人男性がするであろう服装」よりも明らかに「違う」と感じられる服装をしてきた場合、かえって「なんだかこだわりが強くて面倒くさそうな人」くらいにしか思われない。「話しかけやすい」とか「親しみやすい」とかそういった雰囲気がなく、ただ「気取った人」くらいにしか見られない。

これは男性が女性の服装を見たときにも、無意識にそう感じることがあるのではないか。電車に乗っていて、たまたま見かけた人の服装を見て、「なんか面倒くさそうな人だな」と思うことは誰にでもあるだろう。

これは、「○○のアイテムを身につけているから」とか「✕✕の色柄を取り入れているから」とか、そう簡単に割り切れる話ではなく、結局は総合的に見て「なんか面倒くさそう」と判断しているのだと思う。

10代・20代の頃に色々なジャンルの服装を試してみるのは、「装うことの経験値を上げる」という意味で良いことだと思う。

だが、そのうち「年相応の格好」とか「落ち着いた服装」とかいった感性が芽生えてくるに違いない。それは決して年寄りくさい発想ではなく、色々なトライアンドエラーを繰り返した結果から生み出された極めて合理的な結論なのだ。

「年相応の格好」「落ち着いた服装」というのは、一言で言ってしまえば「シンプルな服」のことである。

「周りから見られた時の自分」を意識するようになればなるほど、そうした「シンプルな服」こそが一番良いという結論が出てくると思う。そうなった時、もうそこに「おしゃれ」はない。そして、男の服装はそれこそが周りからの「安心感」や「信頼感」、そして自身の「清潔感」につながるのだ。

男の服装における「おしゃれ」は「なくなっていく」のが宿命であり、そうなればシメたものではないだろうか。

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